打ちのめされるような本って、こういう本のことだな、と思った。
仕事の合間をぬって夢中で読んだ。
信号待ちの時間も惜しくて読んだ。
がんの再発を告げられた一人の女性の、生を賭してがん医療のありかたを問い続けた650日の壮絶な記録である。


百万回の永訣―がん再発日記 (中公文庫) 柳原和子著
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順番としては初発時からの記録である『がん患者学』から読むべきなのだろうが、こちらを先に読みながら合間に分厚い『がん患者学』をめくり、フィードバックする…という読み方をしたのが、私の場合は正解だった。
筆者がどんな経験を経て、現在の日本の医療批判をするに至ったか、がよく理解できたから。


まず感じたこと。


自分にとっての「最高の主治医」と出会い、満足のゆくがん医療を受けるためには、これほどまでに患者自らが病について勉強し、医師と対等に語り合えるほどの知識を得、情報を集め、金やコネを使いながら、東奔西走しなければならないのかと。


日本ではふつう、最初に訪れた病院で入院を勧められ、そこでがんの治療を始める。
ほとんどの人はその時になって初めて、自分で主治医を選べないことに気づく。
紹介された医師が、主治医になるとは限らない。
だが、かといって自分で医師を選べと言われても、それはそれで大変に困る。
多くの人は、まず病院を選ぶ。
主体的な決定権は、そこまで。
一歩病院内に入れば、その先には患者側の選択肢はまず、ない。
病院側が自分にあてがった医師に、運命を託して体を預ける他ないのだ。


・・・・・でも、それってどうなの?



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柳原さんが特別なのだ、と誰もが思うだろう。
医療過誤に関しての有名なライターだから。
著名な医師とのネットワークを持っていたから。
日本で最も有名な患者だから・・・?


彼女は、京都、千葉、名古屋、東京と、各地の一流のがん専門の医師を求めて彷徨った。
高名な医師に直接電話してアポをとり、あちこちで撮ったずっしりと重い画像を脇に抱え、2時間も3時間もその医師と膝を突き合わせて語り合う。
病院では常に個室が用意され、気晴らしの外食なども自由。
思い立って近くの山に登りに行き、連絡もなく遅くに病院へ戻ってきても、凍えたでしょうと別棟の浴室に案内され、時間外の入浴を許される。・・・etc、etc。
(私も細かい… でも印象に残ったエピソードだったので)


こんなこと、普通の人なら出来ない。無理。
現にある医師は彼女に対してこう言った。


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「あなたはほんとうに幸福な患者です。あなたをめぐって動いてきた医師たちは、同じ医師からみてもほんとうにすばらしい志と礼を持ち、最高の技術と能力を尽くしている。ある意味で特別な待遇を受けている、と僕には見える。…(中略)…あなたが受けてきた医療をすべての患者が受けようと思ったら、現在の医療制度と医師の境遇ではほとんどの病院と、そして医師の心身が壊れます。それをはたしてあなたは理解しているのだろうか?」(p.440)
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これに対し「十分すぎるほど、理解している」・・・と筆者は答える。
でも・・・・・。


最終章のこのページ。
柳原さんが今の日本の医療に対して言いたかったことが、文面からあふれ出ている。


確かに私は特別だったかもしれない。だけど私たちがん患者は、すぐれた治療の能力をもっている医師に出会うために、歩かなければならない、調べなければならない、あがいてあがいて辿り着かなければならないのだ、と。



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私の近しい身内に外科医がいる。


がんの末期の親族の予測される最期の姿を、その妻に淡々と話して聞かせる彼。
彼はたぶん親切心で(?)そう伝えただけなのだけれども、私はそれをとても腹立たしく感じた。


医者という種族の人たちの、患者が知るより先に患者の行く末が見えているといった確信は、いったいどこから来るのか。
標準治療やガイドラインにない有効な治療法を探ろうともせず、無知な患者を自分たちの土俵にあげて手に負えないと分かった瞬間に突き落とす。
「あと何ヶ月」という宣告が、患者にとってどれほどの意味をもつものなのか。
がん患者が、医者から聞きたい言葉は少なくともそういう言葉ではないだろうに。
大切な家族をがんに冒された家族が聞きたい言葉は、残された時間の単位なんかではないはずなのに。
・・・と、心のうちでずっと感じていた。


古代中国では、食事で王の病気を治す「食医」が最高ランクで、次にクスリで治す今の内科医に当たる「疾医」、最後がやっと今の外科医にあたる「瘍医」で、4番目の「獣医」のすぐ上のランクだったんだぞ、と。


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悪魔は切って捨てればいい、という明快きわまりない発想。どんなに全身状態が悪くても、切れば治る、と進む姿勢。絶対に治してやる、という傲岸にも映る信念。治らない、とわかったときの冷酷なまでの撤退の早さ。成功のみを記憶に刻み込み、失敗は瞬時に忘れて次のターゲットを定め、まっしぐらに走りつづける楽観性。「手術は成功しました、が、死にました」という論法がまかり通るふしぎな世界……。(p.293)
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玄米を食べ、毎日決まった運動をし、木を抱きしめ、鳥を飼う…。
がん患者の考える治療とは、患者の生活そのものだ。
西洋医学の域を越えた、人が生きていくための「日々そのもの」。
もう手がない…と言われても、まだ生きていかなければならないのだから。


代替医療を効果がないと決めつけ、民間療法に頼る患者を冷ややかな目で見る者に、一日一日を必死で生きるがん患者の気持ちなど分かるはずがない。



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医師は忙しい。
いち患者の話に何時間も付き合っているヒマなどない。


でもそんな理由で、優れた医療を受ける患者のチャンスを奪ってしまっていいのか。
自分の手持ちのカードでは、この患者は救えない、ハイ!終わり!…でよいのか。
他に良い治療法があるかもしれないのなら、患者に情報を差し出すべきではないのか。
病院という枠を超えて、もっと横の連携を持つべきではないのか。
患者が動く前に、医療者が動くべきではないのか。
がん患者が、死ぬために受ける治療の意味を、もう一度深く考えてみるべきだ。
がん患者が納得して死ねる医療とは、何なのか?・・・・・・・・・


柳原和子という人は、がん患者の持つ欲望、願い、理想を行動で示してくれたのではないか。
彼女だけが、人一倍生へのエネルギーを持っていた?
そんなことはないはずだ。
彼女だけが、受け身の医療に不満を抱えていた?
そんなはずはない。


視点を変えてみる。


彼女だけが特別なのだとしたら、そういう医療界こそオカシイのではないかと、私たちは考えるべきなのではないか?、と。





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