3/14発行の週刊金曜日第983号に、緒方正人さんと山内明美さんの対談が載っていた。
ちょうど緒方さんの著書である『チッソは私であった』(葦書房2001年10月刊)を読んでいたところだったので、興味深く読ませていただいた。


この本は、すごい本です。
水俣の漁師であり、父親をチッソに殺された緒方さんが「チッソは私であった」という本を書かれたんである。それがどれだけすごい思想なのか、タイトルだけでも分かる。


読み進めるうちに、ここまでに至った著者の達観は自分には到底得られないと思う一方、いやもしかして今現実に原発を憎み、何とか食い止めたいと思ってやっきになっている自分も、原発のある社会に身を置く一員であり、原発は私なのかもしれない…と考えたり。
なんだか禅問答のようです。


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…私自身、その問いに打ちのめされて85年に狂ったのである。それは、「責任主体としての人間が、チッソにも政治、行政、社会のどこにもない」ということであった。そこにあったのは、システムとしてのチッソ、政治行政、社会にすぎなかった。
 それは更に転じて、「私という存在の理由、絶対的根拠のなさ」を暴露したのである。立場を入れ替えてみれば、私もまた欲望の価値構造の中で同じことをしたのではないか、というかつてない逆転の戦慄(せんりつ)に、私は奈落の底に突き落とされるような衝撃を覚え狂った。(p.8)
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チッソの責任、国家の責任を追及して戦ってきた。
しかし著者は、その一番深いところに「人間の責任」というものがあるのではないかと気づく。
チッソによって生き物の世界が壊された。漁師は魚を採って殺して食って生計をたてている。生き物の世界を壊して来たのは自分も同じなのだ。


見渡せば、家の中にもチッソのような化学工場で作られたモノがあふれている。
近代化とか豊かさとか、まさに私たちの日常生活が、水俣を起こした時代の価値観に支配されているのではないか、、、と。



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緒方さんたち海に生きる水俣の人たちは、水俣病が起きてからも、汚染された魚を食べ続けた。そして、たくさんの子どもを産み育ててきた。


「チッソを恨んでも、魚や海を恨むことはなかった」
「命を選ばなかった」
「命に関わる一番大事なところでは、いつも殺されても殺さなかった」



自然界に生きる人間として、山も川も生き物たちも人間が作った文明に苦しめられているのに、人間だけがそこから逃げるわけにはいかんでしょう、というのがその根本にある。
魚を食べ続けるということは、海への全幅の信頼の現れなのだ、と。


私はここで、どうしても「不幸の均霑(きんてん)プロパガンダ」を思い出してしまう。

不幸の均霑プロパガンダとは、不幸な人を助ける(又は不幸をなくす)のではなく、不公平をなくすことで、みんなで不幸を分かち合いましょう(みんな不幸になりましょう)というレトリックを使ったプロバガンダである。
この主たるものが戦争だったわけだが、この方法は今でも随所で使われている。
原発がそうだし、今の福島がまさにそう。


放射線量の高い農作物を、日本国民みんなで分け合って食べましょう。
危険なガレキは、封じ込めるのではなく、日本全国にバラまきましょう。
放射線量の高い作物を買わないという当然の消費行動をした者は非難され、マスコミは「風評被害」と連呼し、消費者に無用な加害者意識を植え込む。
これがまさに「不幸の均霑プロパガンダ」。


緒方さんのおっしゃっている「共苦」というのは、もちろん不幸の均霑とは全く違う。
もっと大きな自然界全体から見た人間としての自治の精神のことであって、プロパガンダでもないし、水俣以外の人に共苦を強いているわけでもない。


それなのになぜこんなコトを思い出したのか。上手く言えないけれど書いてみる。
水俣のようなこういった人間の犯した過ちで人間が不幸になった事件というのは、加害者が会社なり県なり医学界なり国であったりするわけだが、闘う相手の顔が全く見えないというのが共通した点であるように思えるのだ。


「チッソ」という会社を相手に戦っているつもりが、チッソは会社としての体はすでに成していず、賠償責任の対象が県や国に代わっても、窓口の担当者がころころ代わって話が通じない。
緒方さんも書いている。
「一体だれと自分が闘っているのかというのがわからなくなった」そして「人間に会いたかった」


そして、この世の中では責任というものが「制度化」されてしまっており、水俣病事件は「どうやら人の人に対する罪だけではないということにやっと気付いた気がします」(p42)




豊かさを享受しながら、その豊かさが生み出した負の面だけを糾弾しても、人間そのものが生き方を変えなければ第2、第3の水俣は起こり得る。(現に今でも)

が、一方、それに気づいた人が負を生み出す企業や国の身勝手さを指摘していかなければ、人の命を何とも思わない輩のやりたい放題の社会になってしまう。
だから私は、緒方さんのおっしゃる「共苦」が、「負の面は変えられないからみんなで共に苦しみましょう」というメッセージにすりかえられてしまわないかと危惧しているのである。(大きなお世話かもしれないが)



・・・長くなってしまった


いろいろ考えさせられる本です。
ぜひ読んでみて下さい。









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